上手に英語を読むといじめられる日本の学校
日本の小中学校の英語の授業では、だれかが良い発音で英語をしゃべると、クラスメートたちからからかわれるか、ひどい場合にはいじめられるのだという。皆、それが嫌だから、できる者もわざと下手なカタカナ発音で読む。「そんなこと気にしないで堂々と読めばいいじゃない」と言っても、「とてもそんなことできる環境じゃなかった」と、公立中学に行った現在大学生の息子が述懐する。
日本人の英語下手、つまり伝わらない英語の元凶は、意外とこんなところにあるのかもしれない。私立進学校や、都心の一部の教育熱心な親たちが住む地域では違うのかもしれないが、おそらく日本のほとんどの地域ではこのような現状なのではないか。
嫉妬と横並び意識が英語能力向上の足を引っ張っている
生徒たちが自ら嫉妬による優等生いじめの環境を作り上げ、できる人の足を引っ張っているなんて、そしてそのために多くの真面目な生徒たちがわざわざ英語の発音を下手にしているなんて、実に嘆かわしい、また愚かなことだ。
といっても、嫉妬による行き過ぎた批判の連打や、人の足を引っ張ってまでもの横並び意識、視野の狭さは悲しいかな、小中学校に限らず日本社会の至るところにはびこる病弊である。伝統に原因を求めれば、閉鎖的で単一的な日本のムラ社会の文化が関係しているのだろう。子供たちが発音の良い仲間を揶揄するのは、その一つの表れでもある。子供たちや英語教師だけを責めても仕方ないのかもしれない。
私の息子は「英語を勉強したいと思う生徒と、そうでない生徒とを分けない限り、あの状況は変わらない」とまで主張する。英語を学びたい生徒にとって、状況はそれくらい切実なのだ。
いま真剣に考えたい進度別クラス編成
この問題は実に解決が厄介そうに思えるが、一つの解決策は「進度別クラス編成」ではなかろうか。英語の一部を選択科目にして、取りたい子供だけ履修するというようにしてもよい。学問というものは何でもそうだが、やる気があってどんどん先に先に勉強していく子供と、モチベーションが低く、できるだけやらないようにしようと考える子供とでは、その学習進度に天地ほどの差があっと言う間にできていく。それをいつまでも固定化されたクラスで同列に教えていくのは、とくに英語のような科目では無理がある気がする。
英語の必要性はますます高まる
子供たちが実用的な英語を使えるようになりたいと切実に思わないもう一つの原因は、このままいつまでも英語が話せなくても、仕事に就いて一生を問題なく送っていけるだろうという甘い観測にある。たしかにこれまでの両親の世代まではそれでも良かった。だが、このグローバル化と情報技術が電光のスピードで進みつつある現代では、これからとてもそれでやっていけるとは思えない。おそらく20年後には、移入労働者が激増し、海外のベンダーや取引先やパートナーとのやり取りも増えることにより、日本で働く大卒のホワイトカラーが使う言語の半分は英語になるのではないか。脅しではない。そのことが今の子供たちにまったく伝わっていないように思える。
教師ばかり批判してもよくないが、教師こそ閉ざされた空間でしか仕事をしていない、超ドメスティックな職業だ。失業の危険もない。けれども、現在の教師でもいいし、校外から招いた人物でもよいが、だれかが英語の本当の意味での重要性を子供たちに真剣に説いてほしいものだ。(高橋眞人)