日本の学校にプレゼン教育の全面導入を
私が持っている大きな夢の一つは、日本の学校教育に「スピーキング」の授業を全面導入し、日本人のコミュニケーション能力を飛躍的に向上させることです。この能力こそが、日本人がこれからの国際社会を満足に生き抜いていくうえでのキラー・スキルなのではないかとさえ思っています。
逆に言えば、いまの日本の学校教育に「スピーキング」の授業がないことが、致命的とも言えるほどの欠陥かもしれないと考えます。その結果として、日本の学校教育を受けた日本人は、国際社会に適合するために現在でも非常な苦労を強いられているのが実情だし、このままでは、これからはさらにそのように苦労する人が増えていくのではないでしょうか。
よく日本人は国際社会で英語が下手だと言われますね。英語を母国語としないほかの民族と比べても、まあこれは事実と言えると思いますけれども、厳密に言えば、日本人は「話す」「聴く」が苦手なのであって、「読む」「書く」はそうでもないでしょう(なにしろ、中高で6年間、大学も入れると8年間以上も文法中心に勉強してきていますから!)。
日本人は教育のおかげで読み書きは上手でも話すことは苦手
これは日本の学校の英語学習が読み書き(とくに読み)に偏っているためだと思いますが、私は実はもう一つ隠れた要因があると考えています。それは日本人が、英語、日本語を問わず「話すこと」が苦手だからじゃないのか、ということです。つまり、日本語でも「話すこと」が苦手なのです。
人間は毎日話しているのに「話すこと」が苦手とは、いったいどういうことでしょうか。これも厳密に言えば、日本人は「人前で論理的に話すこと」が苦手なのだと思います。決して日常会話が不得意なわけではないでしょう。
「人前で論理的に話すこと」を英語では「パブリック・スピーキング」といいます。とくに欧米社会はこのパブリック・スピーキングを古代アリストテレスの時代からやけに重視していて、学校でも社会に出てからもそのスキルを磨く習慣があります。
欧米では盛んなパブリック・スピーキング教育
米国の例では、小学校に入ると国語の時間に「ショウ・アンド・テル」(自分のお気に入りの品物を学校に一つ持ってきて、クラスの皆に見せながらその説明を行うこと)と呼ばれる一種のプレゼンテーションの練習が始まります。中学でも高校でも大学でも「パブリック・スピーキング」の授業が必ずあります。社会人向けには「トースト・マスターズ」などのスピーチ力を鍛えるためのサークルが非常にたくさん存在しています。それくらい「人前で論理的に話すこと」を重視しているわけです。
スピーキングをまるで教えてくれない日本の学校
翻って、日本の学校はどうでしょうか。私の経験や私の子供たちの経験を通じても、「人前で話すこと」を体系的に教わったことが一度もありません。文化の差だと言ってしまえばそれまでですが、日本人が「話すこと」が不得意な理由は明白です。 ①スピーキングを体系的に教わっていない、②スピーキングの練習量が圧倒的に少ない、③社会がスピーキング(スキル)に高い価値を与えていない――ことです。
中身も話し方も両方大切
「高い価値を与えていない」とはどういうことでしょう。日本の社会ではよく「外側より中身が重要だ」「体裁を取り繕うのに時間をかけるくらいなら、中身を濃くした方がいい」という言葉を聞きます。欧米では逆です。「中身も話し方も両方大切だ」「いやむしろ、伝え方のスキルは絶対必要条件だ」と言うのです。日本人がなぜスピーキングが苦手なのか、ここにその理由があるのです。
スピーチではもちろん内容も大切です。しかし、自分の持っている内容を人々の心にちゃんと届くように組み立てることもできなければ駄目です。私の考えでは、内容や組み立てや表現の重要性が6割、伝え方の重要性が4割ぐらいではないかと思います。
私の現在の大学院での専攻分野は「スピーチ・コミュニケーション」でしたが、なぜのような文化の差が生まれたのか、このテーマにも関心を持ち、少し研究してみました。その結果、日本はとくに江戸時代の265年間、ごく一握りの高級武士や学者以外、表立って闊達に議論したり演説したりすることが許されなかったため、その文化的習慣が今でも根強く残っているのではないかと考えています。つまり、「理屈を申し立てられるのは大名と学者だけであって、農民や町民は理屈をこねる必要はない」と、そういうことですね。
「人前で論理的に話すこと」が苦手だと、現実的にどんなデメリットがあり得るでしょうか。まず政治家や外交官や弁護士、ジャーナリスト、教師などは言葉のプロでないと務まりませんから、デメリットだらけです。
スピーチには歴史を変える力がある
大きな話をすれば、スピーチはその時々の世界の歴史を変えることに直接貢献してきました。文学とスピーチとの違いはどこにあるか、ご存じでしょうか。もちろん文学は書かれたものであり、スピーチは話し言葉です。しかしもっとも重要な違いは、「文学は永久に残る。スピーチは歴史を変える」ということです。
世界の歴史を変えたスピーチと言えば、リンカーンのゲティスバーグ演説、チャーチルの第二次世界大戦時の下院演説、キング牧師の「I have a dream」演説、ケネディ大統領の就任演説、マンデラ大統領の反逆罪裁判での演説など、やはり枚挙にいとまがありません。最近のスピーチで言えば、高校生のマララ・ユフスザイさんの国連でのスピーチは感動的でしたね。
つまりスピーチは、人々を感動させ、その結果として人々を行動に移させることができます。それこそがスピーチの持つ偉大な力です。なるほど、封建時代の日本でなぜ庶民は「理論的に話すこと」が奨励されなかったのか、こんなところにも原因がありそうです。スピーチは人々を扇動、糾合する力を秘めているためでしょう。
一般のビジネスマンにとってはどうでしょうか。近年は、プレゼンテーションを上手に行い、お客様である聴衆を説得できないと仕事を受注できないケースが全体的に非常に増えてきているのではないでしょうか。これからの時代はますますそうなっていくと思います。なぜなら、世の中が国際化して外国との取引がますます増加し、しかもこの動きがあらゆる業界に及んでくるためです。また、情報通信技術のお陰で、離れていても相手の顔を見ながら話したり、会議をしたり、簡単にできるようになってきたためです。
アスリートも猛特訓で華麗なプレゼンテーターに
最近のもっとも華々しい「説得プレゼンテ―ション」の例として、2020年オリンピック誘致のための日本チームのブエノスアイレスでのプレゼンテーションがありました。アスリートや首相や東京都知事といったメンバーが専門家について猛特訓をした結果、日本史上初と言えるほどの素晴らしいプレゼンテーションを実現し、その結果として、東京オリンピック誘致を勝ち取ったことは、まだ記憶に新しいと思います。
このオリンピック誘致プレゼンの話と同じように、ビジネスの場においても、プレゼンテーションでどれだけ聴衆を説得できたかが死活的に重要になってきつつあるように思えます。
日本の教育(国語教育、コミュニケーション教育)がこれまでいかに「読み書き」中心であったか、世界の標準から外れているか、そのことが日本の人材育成の大きな欠陥となっているか――。これが、とくに政府や教育行政に関係する皆さんに対して、私が声を大にして訴えたい点です。(高橋眞人)